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【寄稿】東京神学大学の問題とキリスト教倫理 松原和仁

はじめに


 東京神学大学(以下東神大と略す)のハラスメントの問題及び財務の問題が2020年7月の月刊誌「FACTA」、2021年5月、朝日新聞および週刊朝日に報じられた。東神大は、全国最小規模の大学ではあるが、キリスト教プロテスタント系神学校であるゆえに、キリスト者には特に注目する記事となった。東神大は、日本基督教団という最大のプロテスタント教会の教職者養成の数少ない場所である。それとともに、東神大は、神学という普遍的な学問研究と学生の指導を行う公共性をもった教育機関であり、文科省認可の大学として、国家からの私学助成金をも受けている。


 そこで学ぶ者は、大部分が神から召命をうけ、将来聖書のみ言葉を伝え、神のみ業を証しし、神に仕えることを決心した者であるとともに、神学という学問研究に従事する人々である。そのような伝道者を養成する大学内で、ハラスメント行為や財務運営上の不祥事にあたる行為が発覚したのだから、世間の耳目を集めたのも当然である。


 ここで注目したいのは、わたしたちが、世間一般で起こるハラスメント行為や財務問題に対する反応とは異なって、キリスト教倫理観から感じとる感覚、反応である。世間的にはそれらの行為は恥ずべきものとみなされて批判されるし、その批判に対して教会や大学が自浄作用を発揮して、問題を解決すべき方向をとることで、断罪された過ちも解決に向かう。しかし、これらの行為を、キリスト教倫理面から、改めて捉えなおし、どのような解決が可能かを考えてみたい。


 わたし自身は、戦後の日本社会の高度成長と共に、キリスト教界においてキリスト者自身の言動、行為が世俗化してきた印象を強く持っている。特に牧師、教職者の倫理感覚が鈍くなり、キリスト教倫理観が劣化しているのではないかと感じている。


 そこで、改めて、ここで東神大問題とキリスト教倫理について思いめぐらしてみたいと思う。


東神大という神話


 私は一般信徒の立場から、報じられた東神大問題の事実関係の詳細を把握するために、2021年7月、立ち上がった「東京神学大学の問題を考える会」(HPあり)のメンバーに加わった。これまでの1年間の学びで東神大が直面する事実や問題点が明らかになってきた。「東京神学大学の問題を考える会」では、これまで6回にわたって、東神大へ公開質問状を出して、東神大の学長と理事長とやり取りをした中で、東神大は「神学校」という名称の下、神格化されてきたことに気づいた。学長も理事長も自己の責任という事柄を理解せず、自分たちの行為や言動は、どこまでも正しいと思い込んでいる。それは、あたかも11年前の東日本大震災の東電事故で「原発は明るい未来!」が実は安全神話であったことに似ている。


 東神大が権威ある神学校であり、そこで教えている教師は正しく、無謬であるという思い込みが、信徒に植え付けられてきたのではないか。このような過大な東神大への評価は、いつのまにか疑うべからざる真実であるかのように宣伝されてきたが、この度東神大で起こっているハラスメントによって起こった複数の裁判や経理の問題を見ると、実は内実の無い神話にすぎないと思うようになった。実際、東神大出身のキリスト教学校の院長が、論文で資料の捏造を行うという事件が起こり、マスコミを賑わせたことも記憶に新しい。証拠を突き付けられるまでは、東神大出身の教育者であり牧師が、そのようなことをするはずはない、濡れ衣だろうと誰もが思っていたのである。


 同じように、教会に集う信徒は、牧師の語ることを善意で受け止め、ほとんど無批判に受け入れる傾向がある。牧師も、そのような「従順な」信徒の存在を好む。しかし、このような牧師と信徒の関係、両者の体質が、神話を助長し、教会と学校で働く牧師たちの「責任」意識を曖昧にし、そのために、一般社会では当然批判されるべきことが、キリスト教世界では、そのようなことがあるはずがないと真実から目を背けようとするのではないだろうか。それが問題の所在と本質を見えにくくしている。


芳賀学長のハラスメントが、裁判所によって認定された


 まずハラスメント問題から考えてみたい。すでに、メディアや「東京神学大学の問題を考える会」のHPでも公にされているように、芳賀力現学長は、元学生と元教授である関川泰寛氏に対する損害賠償が東京地裁の判決によって命じられた。元学生への名誉棄損、元教授へのハラスメントが、裁判所によって不法行為として認定されたのである。学長たる方が、このような判決を受けても、なお一切口を閉ざし、辞任すると表明するわけでもなく、戒告処分も受けないということがまかり通ってよいのだろうか。一般社会では、考えられない事態である。キリスト教世界は、一般の社会よりも、もっと倫理道徳的な規範の遵守が求められるのではないか。


 元学生を擁護した関川泰寛元教授に対するハラスメント行為とは、具体的には芳賀氏が自身のブログの中で、関川元教授を「悪魔」呼ばわりし、さらに全職員に根拠のない中傷文書を配布した行為である。東京地裁は、2022年6月6日の判決で、これらの行為を、芳賀氏の不法行為と認め、関川元教授の損害賠償請求を認めたのである。


 元学生に対するハラスメント行為の背後には、東神大の入学者定員減による文科省からの私学助成金減額の問題も潜んでいるように思われる。学部への入学を許可しながら、すぐに召命感がないからと決めつけ、大学院へは行かせず、学部で退学してもらうというような「指導」が行われたのも、学部への入学者増を一方ではかりながら、入学を許可した学生の指導を疎かにしたのではないか。その裏には、私学助成金を受けとりたいという思惑があるように見えるのである。


 東京地裁の二つの判決につき、大学の理事会、常務理事会などは、何ら公式にコメントを表明することなく沈黙したままである。芳賀学長も、判決については個人的にも一切口を閉ざしたまま、即刻控訴している。近く控訴審判決が出て判決が確定するであろう。通常では裁判の被告とされること自体、学長としてまことに恥ずべきことである。この時点で、自身の責任を厳しく問い、理事会や評議員会もまた、学長と理事長の責任を問題にすべきは当然であろう。真の意味での第三者委員会に、裁定を委ねることがあっても良いのではないか。聖書とキリスト教倫理に則って運営される、キリスト教大学であり、伝道者養成機関である大学として、今の東神大はその建学の精神にも抵触する運営が行われていると考える。東神大には自浄作用が全く働いていないのではないか。そのことがハラスメント被害を受けた元学生と元教員が裁判で争わざるをえなくなる事態へと全体を導いているのである。この責任こそ、学長と理事長は問われるべきである。


東京神学大学の財政問題―仕組債購入と損失


 次に東神大の財務問題と倫理について考える。東神大の年間予算の半分近くが信徒や教会からの献金で支えられているのが実態である。その献金のうち指定献金などが決算書上の3号基金という名目でストックされている。その基金は学校会計法上、聖域として扱われている。2016年11月芳賀学長は「果実を生ませる責任がある」とのことで、証券会社より、株式や投資信託よりもリスクの高い仕組債を6億円で購入し、3号基金の運用を始めた。購入1年後の2017年その仕組債を売却し、9000万円の損失を出し、この損失を隠し穴埋めするためにさらにまた新たに別の仕組債、すなわちドイツ銀行発行の30年償還の仕組債を購入している。仕組債は、当面の利率が良くても、経済情勢によって、元本割も起こりうるリスクの高い金融商品である。おそらく仕組債の十分な知識もないまま、証券会社に勧められて、6億円もの仕組債を購入したのであろう。


 献金は神さまのご用のためにと信徒が献身のしるしとしてお捧げした尊いものである。そのような献金をこの世の金融システムに乗っかって仕組債に化けさせてよいのだろうか。聖書の十戒に「他人の家をむさぼってはならない」とある。学長の判断はこの世にならって「もっともっと」の欲望に走っているように見える。テモテへの手紙(一)6:17には、「不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」とある。学長の6億円もの基金運用は聖書及び十戒にもとづくキリスト教倫理にかなっているとは到底思えない。


キリスト教倫理とこの世界のコンプライアンス


 学長の行為は、キリスト教の倫理に反するばかりではなく、この世の法律、コンプライアンスにさえ抵触している。決算書の3号基金をリスクの高い仕組債購入で運用する場合は、学校会計法上寄付者(献金者)の同意を要すると考えられる。また、学内規定の「資産運用規定」があり、その第二条の運用基本原則にも抵触している。つまり大学のトップ責任者と定められた芳賀学長自身が法令違反、コンプライアンス違反行為をしているという信じがたい事実がある。主権者なる神の前に、教会も神学校の規範も、この世の規範と同じように建てられていると信じている。それならば 学長と現在東京神学大学が行っている行為は、聖書の倫理観にも悖る行為である。神学教育の責任者は、本来この世の「道しるべ」となってこそ、世の光となる伝道者養成にあたることができるのではないか。またそのような伝道者によって日本と世界の伝道も進展するのではないだろうか。東神大の学生を教え指導する学長はじめ教員は、日々聖書の世界観と倫理観に生きて模範を示してこそ、よき宣教者、伝道者が生まれるのである。


 東京神学大学で起こっている諸問題は、わが国におけるキリスト教倫理の具体的な課題を提起している。お金の問題、人権の問題をキリスト教会は蔑ろにして良いはずはない。伝道の進展のためには、東神大の在り方自体を今改革する必要がある。そして改革のためには、理事者や学長、教師が、神の前に襟を正して、自らの責任を問うところから始めるべきではないだろうか。「責任」という言葉こそ、東京神学大学の諸問題とキリスト教倫理の問題を繋ぐものだからである。



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