尾崎二郎牧師の裁判判決が、10月11日東京地裁立川支部でありました。結果は、尾崎牧師の請求が棄却されました。尾崎牧師にとって、また支援してくださった方々にとっては、まことに残念な判決でしたが、その報告と所感をHPに掲載します。
第一の感想は、まことに原告である尾崎牧師にとってはハードルの高い訴訟であったと痛感したことです。修士論文審査の是非について、外部者である原告が、裁判所を納得させる証拠を出して立証するのは、容易でなかったという事に尽きます。あらためて、著名な裁判官がよく言っておられた言葉を思いだしました。
「裁判とは証拠によって立証出来る範囲の事実を認定するものであり、真実を解明するのは裁判の仕事ではない。それはマスコミ、研究者、そして最終的には社会の責任である。裁判官に真実の探究を求めるのは、ある意味、過大な要求である」。
尾崎先生はもともと負ける覚悟で問題提起のために裁判を起こしてくださり、ここまで労苦され、大事な働きをしてくださったことを感謝し、敬意をあらわしたいと思います。また、訴訟の口頭尋問や陳述書によって、東京神学大学の修士論文の評価の問題点も浮き彫りになったように思います。
判決書の中身を読んだ感想としては、二つありました。第一は、関川元教授とK教授の対立について、修士論文審査の公正さを明らかに害する程度であったとの立証が、やはり困難であった。関川元教授とK教授との間に訴訟が存在していたとか、あるいはそれに匹敵する顕著な事象が無い限り、修士論文審査の公正を明らかに害する証拠としては認められなかったという事でしょう。
第二の感想は、12月初頭の、もう一人の副査であった教授が欠席した教授会で、尾崎牧師の修士論文審査の不合格が教授会で可決されてしまったこと。それから、K教授の尾崎論文に対する論評が裁判官の目から見て、論文の共通評価基準に合致すると見えてしまったこと。これらがポイントとなり、12月の教授会の決定を裁判所としては尊重せざるを得ないのだと思います。12月教授会後の評価修正義務を大学に求めるには、12月の教授会決定の手続きに著しい不公正があるか、K教授の論評内容が外部の素人から見ても明らかに「理由がなく不合理だ」と納得させる証拠が必要でした。外部者である原告がそれらの証拠を集めることは不可能だったと思います。
裁判官が大学内部の修士論文審査の違法を認めるためには、客観的に認定出来る基準に照らして、外形的にしか審査出来ないという制約の範囲で見ても「これは明らかに公正さを欠いた審査だ」と言えないと厳しいのでしょう。そのことからすると、やはり尾崎論文に対するK教授の点数評価を違法とまでは認定出来なかったのだと思います。
尾崎牧師、あと裁判に協力した関川元教授、弁護士は最善の努力をしたのに残念で悔しいですが、「裁判の限界」という面を感じました。
当時、尾崎牧師と同じ時期にM2の歴史神学に在籍し修士論文を出した者として、尾崎牧師の論文を不合格にするなら、他の論文をたくさん不合格にしないと、辻褄が合わなくなると感じています。尾崎牧師とともに大学院に在籍し、歴史神学を学んだ者として、K教授は尾崎牧師の論文だけを恣意的に不当に厳しく評価したと思わざるを得ません。今後も尾崎牧師の活動、お働きを祈りに覚えます。
以上が一読しての感想です。 (元東京神学大学学生)
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