◆上告棄却
2月16日、東京神学大学の元学生が、東京神学大学芳賀力学長に対して起こしていた裁判の上告審判決がなされ、最高裁判所は芳賀力学長の上告を棄却しました。これにより、元学生に対する芳賀力学長によるプライバシー侵害の不法行為が確定し、芳賀力学長に対して慰謝料20万円の支払いが命じられました。これで約3年にわたって続いた裁判が終結しました。クリスチャントゥデイ (2023.2.18)
◆問題は自浄作用が働かないこと
この度の裁判にあたっては、様々な声が寄せられました。応援と励ましの声とともに、中には「裁判などけしからん」「証にならない」「お金の無駄である」「もっと他の解決方法があったのでは」などという厳しい意見も聞かれました。
もちろん、大学内部において、自浄作用が働くのであれば、この度の裁判を起こす必要はありませんでした。裁判を起こすということは、当人にとって経済的にも精神的にも大きな負担です。誰も好き好んで裁判を起こす人はいません。また裁判を起こすことによって、被害を訴えている側の人間が、心ない批判を浴びることもあります。とても残念なことに、裁判によって明らかにされた事実には関心が向けられず、被害を訴えている側が悪いという風潮が広まってしまうのです。
◆裁きと赦し
またそのほかにも、牧師からよく聞かれる声は「裁くな、赦せ」という声です。おっしゃるとおり、最終的な裁きは神さまにお委ねすべきことです。そして、私たちは赦さなくてはなりません。しかし、赦すことと、ある問題を知りながら、それを見て見ぬふりをして、やり過ごすことは大きく異なります。過ちや問題があるならば、それを指摘し、正しい方向に向かうように行動することは必要なことです。
礼拝の説教壇から語られる「裁くな、赦せ」という言葉は、それが律法主義的に語られるとき、被害を訴え、苦しみの中に置かれている者にとっては、その言葉そのものが裁きの言葉となることを牧師は自覚しなければなりません。
◆健全な批判の封じ込め
本来ならば、一連の問題に対する批判や指摘は、大学内部や、東京神学大学を支える教会内部からなされるべきだったのでしょう。しかし残念ながら、その健全さが失われているのが、今の東京神学大学と大学を取り巻く教会の現実なのです。内部から批判の声を上げれば、それが組織に対する「攻撃」と見なされ、徹底的に排除されます。時には文書をでっち上げてまで、処分を画策しようとします。「まさか」と思われるかもしれませんが、神学校において、現実としてこのようなことが起こっているのです。私たちはこの現実から目をそらすことはできません。
◆ガバナンスの崩壊
この度、裁判を起こした元学生は初めから裁判を起こすつもりだったわけではありません。大学のガバナンスが崩壊しており、学内での解決が期待できないがゆえに、裁判に訴えたのです。
今回の東京神学大学学長によるプライバシー侵害という不法行為は、大学のガバナンス機能が崩壊していることを如実に物語っています。大学の学長という最も責任ある立場にある方が「説明責任を果たす」という名目で、学生の成績や入試の時の様子などを公の場で第三者に暴露しました。そこには残念ながら、ハラスメント被害を訴えている学生に寄り添って配慮するという姿勢は見受けられません。例えば、小学校の校長先生が、自分の学校の生徒の成績を公の場で、保護者や他の生徒たちに勝手に暴露するでしょうか。大学のトップたる学長であれば、まずは自らの学生を守り、寄り添う配慮を示すことが本来のあり方ではないのでしょうか。
芳賀力学長が御自身のブログ(『芳賀力のブログ』2月10日)に次のようにお書きになっています。
「第二期の学長の務めを引き受けて、学内で起こったことの説明責任を、ただただ果たすためにだけ行ったことのために、裁判に訴えられるという、思いもよらない経験もした。何より辛いことは、日本に建てられた唯一の教団立神学校が、このようなネガティブ・キャンペーンによって揺さぶられたことである」
芳賀力学長が、この度の一連の出来事を「説明責任」という言葉で自己正当化し、東京神学大学に対する単なる「ネガティブ・キャンペーン」としか捉えておられない、というのはとても残念なことです。しかし、これが本音なのでしょう。
この度の判決を受けての、東京神学大学教授会・理事会による公式見解が待たれます。
そして今後、東京神学大学のさらなる危機的な実態が明るみに出てくることでしょう。
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