◆戒規適用
先ごろ、涌谷教会の前牧師に対して日本基督教団教師委員会による戒規「戒告」が決定された。
涌谷教会の前任牧師は2019年、涌谷教会が教規に基づく正規の手続きのもとに解任を決議したにもかかわらず、それを認めず訴訟を起こした。
裁判は最高裁まで争われたが、結果は原告である前任牧師の請求が棄却され、涌谷教会の同牧師解任の正当性が司法においても認められた。
一方涌谷教会の側も牧師館の明け渡しを求めて前任牧師を訴え、こちらも最高裁まで争われたが、教会の完全勝訴となった。
この結果を受けて、前任牧師は2023年にようやく牧師館を退去したのだが、その間の電気、ガス、水道代は教会(現住陪餐6名)が支払い続けており、未だその精算はなされていない(教会は2020年4月にガス契約を教会から前任牧師個人に切り離したが、40万円を超えるガス代は未払いとなっている)。
◆「協定書」の存在
宗教法人涌谷教会付属涌谷保育園は2000年に社会福祉法人涌谷みぎわ会涌谷保育園に改組された。
その際教会は保育園のために土地を無償貸与し、法人が分かれても教会と保育園が車の両輪として歩むために、互いに「協定書」が交わされた。この「協定書」には次のように定められている。(『時の徴』169号に詳しく記されている)
第2条「保育園の理事長の選任については、宗教法人日本基督教団涌谷教会の教会総会の承認を得なければならない」
第3条「理事・監事は定款一条の目的達成のために、おのおの過半数以上をキリスト者とする」
第4条「保育園の園長は、・・・教会の代表役員が兼務する」
第5条「教会が保育園の敷地・建物を使用する場合は便宜を図ることができる」
前任牧師はこの協定に基づいて、宗教法人日本基督教団涌谷教会の代表役員として、教会総会の承認を得て、涌谷保育園の園長並びに、涌谷みぎわ会の理事長に就任した。
当然のことながら涌谷教会からの招聘がなければ、涌谷保育園の園長・法人の理事長就任はあり得ないことだった。
そのため、本来ならば涌谷教会を解任された時点で、法人の理事長の職も辞さなければならない。
しかし、前任牧師は涌谷教会を解任されもなお、涌谷保育園の施設管理者及び、涌谷みぎわ会の理事長の職にとどまっているのである。
日本基督教団教師委員会はこの「協定書」を有効なものと認めた上で、それを反故にしている前牧師に対し「教規第141条及び戒規施行細則第2条に抵触する」として戒規「戒告」を決定した。
しかし涌谷教会は、前牧師が涌谷みぎわ会にとどまり続けている限り、片方の車輪を失ったような状態であり、新たな牧師を招聘することもできず、涌谷教会の宣教そのものが著しく阻害され続けている状況なのである。
◆前牧師を支える2人の牧師
前牧師が今も理事長職にとどまっている社会福祉法人涌谷みぎわ会には、理事、評議員に東京教区所属の2名の牧師が名を連ねている。
涌谷とは何の縁もない人たちが小さな地方教会の関係施設の経営に関わることによって、教会と地域との信頼関係を損ね、教会を危機的な状況に追い込んでいる。
大切なことは、その土地にあってその土地に生きる人々と信頼関係を築きながら宣教していくこである。そのためにこそ、理事や評議員に牧師が入っているのではないのか。
当該牧師たちは自らのアイデンティティをどこに置いているのか、と問わずにはおれない。社会福祉法人の理事や評議員である以前に、主によって召され、立てられた日本基督教団の牧師ではないのか、と。
本来ならば「協定書」に従って、前任牧師の理事長辞職を促し、混乱収拾のために働くべきではないか。結果として彼らもまた涌谷教会の宣教を妨害しているのである。
◆すべての始まりは、東京神学大学による人事
そもそも、一連の問題のすべての始まりは東京神学大学が前任牧師を涌谷教会に推薦したことにある。すべての問題はここに端を発するのである。
当時の学長からの推薦書には、当時当該牧師が東京神学大学の教授である2名の牧師と共に、ある教会の協力牧師として、横浜郊外伝道に取り組んでいたと記されている。
前任地を諸事情の末辞めた後、言うなれば東京神学大学による最大限のバックアップを得て新たな任地を紹介されたのだ。
しかし結果として、この人事によって、涌谷教会は今混乱の中に置かれている。
もちろん、人事のミスマッチは起こりうることである。問題はそれが起こってしまったとき、どう対処するかではないか。
残念ながら東京神学大学はこの問題に沈黙し続けている。ましてや元東神大の教授や現東神大の教授は前任牧師をサポートし続けている。
前任牧師をサポートしていた教授も涌谷教会に寄り添う姿勢は一切見せていない。
また他教区の教会においても東京神学大学の人事による同様の問題が起こっている、という声も漏れ聞こえてきている。
東京神学大学には、東京神学大学が推薦した牧師によって地方教会で引き起こされている混乱状態をしっかりと見つめていただきたいと思う。
「教会と神学校は車の両輪である」と学長室の中から熱く語るだけではなく、学長室を飛び出して自ら足を運んで話を聞き、その片輪で起こっている事実を正確に把握し、寄り添う姿勢こそ必要ではないか。
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