「裁きと赦しについて」②
- toshindaimondai
- 7月23日
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◆「裁くな」「赦せ」と言いながら――声を上げた人々を裁いていないか?
東京神学大学をめぐるハラスメント問題や財務の不透明性について、関係者が声を上げ、裁判という手段を取ったことに対して、一部の教会関係者や同窓生の中から「信仰的でない」「赦すことが大事ではないか」といった批判の声が上がっています。
こうした言葉の裏に、深い信仰的な願いがあることも私たちは理解しています。
私たちもまた、赦しの福音と神の愛を中心に据えて歩みたいと願う者です。
しかし一方で、「赦せないのは愛がない」「裁判に訴えるのは信仰者としてふさわしくない」と声を上げる人々を断罪するような語りは、それ自体が別の形で「裁くこと」になってはいないでしょうか?
○「裁くな」という言葉が、人を裁く道具になっていないか
主イエスが語られた「裁くな」という言葉(マタイ7:1)は、本来、他者を断罪し、自分の義を主張する傲慢さへの警告でした。
それが今、裁判という道を選んだ人たちに対する攻撃の言葉となっているとすれば、本末転倒です。
声を上げた人々は、苦しみの中で祈り、悩み、あらゆる対話の機会を探った末に、法的手段しか残されていないと感じたのです。
それは信仰を捨てたからではなく、むしろ信仰の誠実さに基づいて選ばれた苦渋の道でした。
○福音は痛みの声に耳を塞ぐことではない
「赦しが大切」「対話が必要」と語るなら、まずその言葉を語る側が、訴えた人々の声に耳を傾けるべきではないでしょうか。
傷ついた者の痛みに向き合わず、「赦し」や「信仰」という言葉で沈黙を強いることは、信仰の名を借りた抑圧にすらなり得ます。
私たちは「誰もが裁いているかもしれない」という謙遜を持ち、まず苦しみの声に立ち止まる勇気を持たなければなりません。
○声を上げた人々の願いとは
裁判を起こした方々が求めているのは何か。それは間違いが正され、再発が防がれ、同じ痛みを他の誰かが経験しないで済むようにということ――それが彼らの願いです。
主イエスがなされたように、声なき者の声を聞くことが、今の教会と東京神学大学にこそ求められているのではないでしょうか。
○私たちの問いかけ わたしたちは、この問題をもってただ「過去を暴こう」としているのではありません。
信仰と誠実さに立ち、教会と神学教育がより良いかたちへと導かれることを願っています。
「赦しとは何か」「信仰的であるとはどういうことか」――これらの問いを、対話の中でこそ共に深めていきたいと、私たちは願っています。
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