「裁きと赦しについて」①
- toshindaimondai
- 7月23日
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◆「赦せ」「裁くな」は正しいのか?――信仰を口実に、声を封じることへの違和感
東京神学大学をめぐるさまざまな問題――ハラスメント、仕組債損失、人事に関わる不誠実な対応――について、私たち「東京神学大学の問題を考える会」は問い直しと説明責任を求めてきました。
しかし一部からは、「信仰者なら赦すべきだ」「訴えるのは信仰的でない」「教会を裁くのはふさわしくない」という声が上がっています。
これらの言葉が、果たして本当に福音に根ざしたものなのか、改めて考えてみたいと思います。
○赦しとは「沈黙」ではない
「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)というイエスの言葉は、確かに赦しの大切さを教えています。
しかし主イエスはその赦しと同時に、「悔い改め」の大切さをも語っています。
今、東京神学大学で起きたハラスメントや不誠実な財務運用、説明責任の欠如に対し、誰が責任をとったでしょうか。
誰が公に謝罪し、悔い改めを示したでしょうか。
何も解決されていない中で「赦せ」と言うことは、被害を受けた人々に沈黙を強いることになります。それは、赦しではなく、隠蔽です。
○裁判は信仰に反するのか?
「教会や神学校を裁判に訴えるのは信仰的でない」という意見もあります。
確かにパウロはコリントの教会に「兄弟同士の訴えを異邦人の法廷に持ち出すべきではない」と語っています(Ⅰコリント6章)。
しかしこれは、教会共同体の中で公正と誠実が保たれていることを前提とした教えです。
長年、東京神学大学の内部では声が無視され、相談は握りつぶされてきました。
また客観的に見て、仕組債による献金の損失を外部から指摘されるまで、隠蔽していたことは公益法人としても神学校としても大きな問題です。
公正な手続きや透明性が機能していない場合、外部の判断に訴えることは、むしろやむを得ない選択であり、信仰的良心に基づく行動です。
○赦しの名のもとに被害者を再び傷つけていないか
「赦し」を語るとき、もっとも気をつけなければならないのは、その言葉が、被害を受けた側の沈黙を強いる「二次加害」となっていないか、という点です。
赦しとは、苦しみを与えた側が責任をとり、真実を明らかにし、誠意ある謝罪と悔い改めがあって初めて可能になるものです。
それを抜きにして「赦し」を要求することは、加害の正当化にほかなりません。
○私たちは主の光の中で歩む
主イエスは「あなたがたは世の光である」と言われました。
隠蔽ではなく、真実を明るみに出すことこそ、教会に求められている使命です。
問題を公に問い直すこと、責任を明確にすることは、信仰者であればこそ本来取るべき行動です。
痛みを抱えた方々の声を聴き、教会が悔い改めへと進むために、今こそ誠実な対話と透明な説明責任が必要です。
私たちは「赦す」ことを否定していません。むしろ、真実と悔い改めに基づく赦しこそが、教会と神学校を立て直す唯一の道だと信じています。
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